2021年11月16日

 

『人の痛み』を放置しない判断を

 

最高裁判所 御中

福島第一原発事故・損害賠償愛媛訴訟

原告 渡部寛志

1、私たちの思い

 「やりたくてやってるんじゃないし、巻き込まれてるだけだし」

5日前、「裁判の事どう思ってる?」との問いに対し、13歳の原告、私の娘が答えました。福島第一原発事故発生時2歳、松山地裁提訴時5歳だった娘は、「パパが原告だから巻き込まれた、国が悪いと認めないから私もやめない。だけど、最高裁判所で終わるんでしょ」とも言いました。 

 「どう終わったらいい?」と聞くと、「国が、皆さんのために上告を諦めます、とか言うのはダメだよ。国は自分の責任を認めてちゃんと謝って欲しい。そして最後には、避難してる人も、東電の人も、国の人も、みんなに幸せになって欲しい」と答えました。反抗期の割に、まともなことを言ったことに驚きました。

 

 愛媛に避難している人たちにも、国・東電に対する思いを聞きました。

・30代女性、「国にも責任はある。謝罪されても、お金だけでも解決しない。元の福島に戻して欲しい」

・40代女性、「311がなかったらと10年経った今だから思う。原発のことが常に付きまとう人生になってしまった。あの時を返せ、人生を返せと思う」、「国に責任があるのは当たり前、まだ終わったことにさせたくない。原発事故は悲しい出来事だったが、みんなが目を向け、みんなに考えてもらう切っ掛けになったはず、将来のこと、子供たちの未来のことを考えて欲しい」

・70代男性、「残り少ない人生がどうなるか、という不安も大きい毎日である。県内に留まっている人達のみならず、日本中に避難している人達全員に対して一日も早くお詫びして回るべきだと思っている。一日も早く東電・国が真摯に、心からの謝罪と反省をすべきだと強く思う」

 事故から10年を経た今でも、現状に納得できないという声ばかりです。

 

2、二つの被害

 愛媛に避難した私たちは、事故発生から3年目に提訴しました。国が原発事故の責任を認めなかったからです。

 福島第一原子力発電所の事故は、『目に見えないモノ』が恐怖を生み、生きる場を奪い、家族を引き裂き、人々の営みを破壊しました。私たちは、先を見通せず、未来を描けず、さまよい続けました。

 そしてこの間私たちは、様々な苦難に直面し、恐怖・不安・悲しみ・虚しさ・後悔・怒り・絶望などの『心の痛み』を受けました。

 もし、事故直後に国が自らの責任を認め、速やかに被害者救済にあたる為の法をつくり、制度を整備していれば、このような裁判は起こるはずがなく、長々と争い続けることはなく、全く違う心持ちで原発事故から10年の今を迎えていたはずです。

 国は、事故を防げず被害を与え、責任逃れをし続けることで被害(心の痛み)を拡大させているのです。

 

3、高松高等裁判所への感謝

 原発事故発生から10年の時を経て、今年9月29日高松高裁にて、待ちに待った判決が出ました。『国の規制権限不行使を認め、国の賠償責任を認めたこと』、『原子力政策を積極的に推進してきたことを理由の一つに挙げて、国の責任の範囲を限定しなかったこと』、『放射線被ばくに対する恐怖や不安から避難する合理性を認めたこと』など、原告の訴えの多くを聞き入れてくれた判決は有り難いものでした。

 私は、神山裁判長による判決言い渡しの最中、胸が熱くなり涙が込み上げました。「私たちの声は届いていた。私たちの思いを受け止めてくれた」と感じたからです。

 同じく法廷で判決言い渡しを聞いた70代男性原告も、「東電・国に対しての不信感が大きい中で、高裁が東電・国に対する責任を全面的に認めてくれたことは本当にうれしい」と喜びの声をあげました。

 

4、最高裁判所へのお願い

 どこかに『誤り』があって、原発事故に至ったはずです。その真相を究明できぬまま10年以上の年月が流れ、私たちは『限られた人生の大切な時』を失い続けています。

 裁判官の皆様、一日でも早く一人でも多くの人が前を向いて歩き出せるように、希望を持てる社会であることを子供たちに伝えるために、人の痛みを放置させない判断をされますよう、切にお願い申し上げます。

 


2021年11月16日

 

福島第1原発事故から10年経って思うこと

 

福島原発事故避難者訴訟えひめ

弁護団長  弁護士 野垣 康之

忘れられない光景があります。

 

2011年4月、福島第1原発事故発生から間がない頃に、四国霊場51番札所、石手寺の加藤住職と、原告代表者、渡部寛志さんの呼びかけで、愛媛県松山市の道後公園に、福島第1原発事故から松山市に避難してきた人達、数十名が集いました。

 

福島から避難してきた人達は、お互いに初対面で、まずは「自分は原発事故前は、福島県の・・・でどういう生活をしていました。こういう経緯で松山に避難してきました。よろしくお願いします」と自己紹介をして、「縁あって松山に避難してきた仲間。これからお互いに連絡をとりあって、力を合わせていっしょに頑張りましょう」と、懇親を深めました。

 

ふるさと福島から、はるか遠い松山に避難してきて、周りに頼れる親類縁者もいないなか、将来への不安をかかえながら、懸命に、前を向いて生きていこうとする避難者の人達を目の前にして、松山在住の私も、可能な限り支援していこうと誓いました。

 

最後に、全員で肩を組んで「ふるさと」の合唱をしました。「うさぎ おいし かの山 こぶな つりし かの川 ゆめはいつも めぐりて わすれがたき ふるさと・・・」

 

うつくしま福島を想う避難者の人達の歌声が、夜の道後公園に響きわたっていました。

 

あれから10年経ちました。当時、道後公園に集まった避難者のうち、病気で亡くなった人、福島に帰った人、離婚して家族がばらばらになってしまった人、自ら命を絶った人、新しい環境になじめず不登校になってしまった子・・・避難者の人達は、人には言えない多くの艱難辛苦を乗り越えてきました。まさに、原発事故で人生が一変してしまったのです。原発事故発生に、何の責任もない人が、どうしてこのような過酷な人生を送らなければならないのでしょうか。「原発事故さえなければ・・・」。避難者の人々の無念さ・心痛は察するに余りあります。避難者が受けた被害のすべては、東京電力と国に十分に賠償してもらわなければなりません。

 

 

 

東京電力は、事故発生当初「最後の一人が新しい生活を迎えることができるまで寄り添い賠償を貫徹する」と誓いました。ところが、原発事故から10年が経った今では「自主避難の人は避難する必要がないのに避難した」「中間指針による賠償で十分(もしくは払い過ぎ)

でこれ以上支払う必要はない」等々、責任逃れに終始しています。巨大な、放射能公害をもたらした加害企業・東京電力の、避難者に背を向けた、あまりにも酷い対応は、厳しく指弾されるべきです。

 

 

 

避難者の人達が、福島第一原発事故の責任の所在を明らかにして、真摯な謝罪を求めることは当然のことです。どうか、国や東京電力が、原発事故の責任を真摯に受け止めて、原発被害者に謝罪し、誠意をもって償う決断を強く促す、正義の判決を、最高裁判所が下されることを願ってやみません。